自由という不自由さ

 来年の4月から年長になる上の子の、ランドセルのカタログが届くようになった。いわゆる「ラン活」である。

 最近のランドセルのデザインや機能の豊富さに驚かせられた。

 全体の色だけではなく、色の組み合わせ、背中のカラー、形、かぶせ(ランドセルの一番外側の部分)の刺繡デザインや飾り鋲、内側のデザイン、ネームプレート、素材、軽さ、強度、などなど。

 

 自分が小学生だった数十年前を思い返すと、色なんて黒または赤だった。たまにピンクだったり、横長型といったスタンダード以外の色や形のランドセルを使っている子もいた。とにかく今と昔では選択肢の幅が大違いなのだ。

 

 こだわりがある子にしてみれば、「自分の思い通りのランドセルが手に入る」という喜びがあるだろう。しかし、私個人の感想としては、多すぎる選択肢から一つ選ばなければならないという作業はかなりの労力を割くと思ってしまう。

 

 このことはランドセルだけの話ではない。

 日常生活の他の買い物だって、進路だって、人生だって。

 選択肢が多いからこそ生まれてしまう悩みやストレスは本当に幸せなのだろうか。そこに割かれる思考や決断力、時間を別のことに使えたのかもしれない。多くの選択肢にさらされ決断してきたエリートよりも、狭い世界で生きるマイルドヤンキーと称される人たちの方が幸せそうに生きていることもある。

 

 狭い世界が息苦しい人にとっては、新たな選択肢というものは救いになる。必要なことだ。広い世界を知っている事の自由さは確かにある。しかし、全員が全員そうである必要はない。自由に喜びを感じる人もいれば、制約のない自由さに不自由さを感じる人も確かにいる。

 

 自分がどちらの人間かを知る事。自分がこうだから他人も同じだとは思わない事。

 

 これを忘れてはいけないなと、自戒を込めて。