世の中には解決策があるものと解決策がないものがある。

 世の中には解決策があるものと、ないものがある。

 

 私は困ったことがある時、解決策をつい求めてしまう傾向にある。

 子どもが遊んでいた車のおもちゃのタイヤが上手く回らない場合、一度分解してなぜ上手く回らないのか構造を確かめたり、直したりもしていた。先日ドライヤーが壊れてしまった際も、分解して原因を確かめた。こちらはさらに細かい内部の部品が欠けてしまっていたので、修理には至らず結局買い替えた。

 問題が起こった時、その原因を探ったり、対処方法をインターネットや図書館の本などでよく探す。解決策が見つかる事もあるし、見つからずに途方に暮れることもある。世の中に解決策は存在するが、たまたま自分で出来る方法ではなかったり、単純に見つけられなかっただけだと思っていた。

 

 しかし、先日、解決策がない問題に遭遇した。

 下の子が吃音傾向にあると感じ、図書館で複数の本を読み漁ったのだ。しかし、現代の医学をもってしても、解決策は存在しないらしい。あるのはただ現状を受容すること、そしてこれ以上悪化させないための応対の仕方や周囲への働きかけの方法ばかりだった。

 

 ショックだった。

 

 しかし、よく考えれば当然のことだ。全ての物事に解決策があれば、人間は死なない。物は壊れない。争いは起きない。人間は死を克服できないから、死を受け入れるしかなく、散りゆく姿を儚く嘆き、対立は生まれる。

 

 解決策を求め抗うことは時に科学技術の進歩に大いに役立つが、一個人の人生として幸福か否かは測りかねない。人は生まれたからには必ず死ぬ。死にたくないと思うことは生きるものとしては当然の感情だが、だからと言って死を受容できずに自分を否定し続ける最期は幸せなのだろうか。

 ある意味、この「解決策が存在しない問題があるところ」は新興宗教や霊能商売がはびこりやすい場所なのかもしれない。

 

 現状を受け入れ、受け止める。「藁にも縋る思い」と言うが、しょせん藁は藁だ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 結局一般凡人の私には、自分の手が届く範囲の世界を、昨日よりも少しでも良くなるように掃除をして自分の機嫌を良く保つことしかできない。でも、それでいい。