他言語の存在認知の必要性

 コロナ禍の規制も緩和してきて、都内は外国人観光客が少しずつ戻りつつある。

 電車内でも日本語を母語としない人達の会話が聞こえてくるし、私の職場でも外国人からの問い合わせが増えている。母語とする言語は中国語だったり、韓国語だったり、英語だったり、ドイツ語だったり、スペイン語だったり。

 スマホの自動翻訳がだいぶ助けられているが、それと同時に自動翻訳だけでは伝えきれない事も日々実感する。専門知識であったり、感情面だったり、自分が本当に伝えたい内容が正しく表現できているか。

 

 幸か不幸か、日本は日本語だけしか話せなくても生きていける。母国語であらゆる専門分野での研究も行われている。今現在は。

 たとえば医療の世界では英語論文が主流で、最新情報は常に英語で発表されている。漫画やアニメは今はまだ日本語原作が人気だが、中国語原作のアニメもでてきたり、韓国語が母国語のアニメスタッフも増えてきている。数年、10年くらい経ったら中国韓国で漫画やアニメ制作が行われて日本語版が後出しされる未来があるかもしれない。

 

 英語に限らず、母語の他の外国語を学ぶことは自分の世界を広げるのに大いに役立つだろう。言語は文化であり、コミュニケーションの道具だ。使える道具は多いに越したことはないし、他国の文化的背景を知ることで避けられる衝突も増えるだろう。

 

 子ども達には、日本語以外の言語の存在を意識づけるようにしている。

 例えば電車に乗る時、駅のホームや電車内の電光掲示板では英語・中国語・韓国語の表記が増えてきている。その他にも、点字や手話など、世の中にはあらゆる言語やコミュニケーションツールがあることを知っておいてほしくて声かけをするようにしている。

 

「ここに点字があるよ。目が見えない人が何のボタンなのかわかるように点字で書いてあるんだね」

「英語のアナウンスも聞こえてくるね。何て言ってるかな」

「見て、漢字と中国語、ちょっと形が似ているね」

 

 人間は認識できるものしか見ることができない。

 例えば普段街中を歩いている時、自分以外の歩いている人みんなが健常人に見える。

 ところが自分が怪我をして松葉杖をついて歩くようになると、意外と同じように怪我をしている人が見えるようになったりする。独身時代、都会には大人しかいないように見えていたが、自分が子どもを連れて歩くと他にも子連れの人がちらほらいるのが目につくようになる。

 だから見えなくなる前に、存在していることを認識させる声掛けを、これからもしていく。