嫁姑のいざこざと受験生の親子。

 年末年始の休暇の間に、普段なかなか会えない友人や親族に会う機会に恵まれた。

 長く住む土地にとどまり続ける家。子どもの独立を機に転居する家。子どもの進学や受験のために年末年始も変わらずに過ごす家。格式を重んじる家。気軽に顔を合わせることを大切にする家。

 

 家族の在り方は十色だ。そしてそこにある幸せの形も。

 

 結婚とは、育ってきた環境の異なる人間同士が共同コミュニティを作る一つの契約だ。前提とする考え方や価値観が異なる。たとえ結婚する夫婦同士が気が合ったとしても、互いの実家の人間とまで気が合うとは限らない。そして私の観測する範囲内においては、過干渉な人間ほどトラブルになる。

 密なコミュニケーションこそが親密の証と考える人もいるが、適度な距離感というものは互いの価値観を尊重するためには必要なものだ。親しくなろうと思って絡みすぎると逆に嫌われる。いわゆる「ウザ絡み」というものになる。

 

 親密なコミュニケーションに必要なのは、相手の観察だ。相手が何を必要とするか、どういうことを大切にしていて、どういう手順で物事を進めることを好むかをきちんと把握する。相手の価値観を無視しての行動は基本的に、好意に基づくものだとしても嫌われる。相手と親密になりたいのであれば、必要なのは密なコミュニケーションではなく、相手のペースに合わせたコミュニケーションだ。

 

 これは大人対大人で言えるが、大人対子どもでも同じことが言える。

 子ども、特に小学校高学年以上の年齢になってくると、本人の思考力は大人と同等に成長しているケースがほとんどだ。相手を子どもと侮って、支配的に侵略し行動を押し付けると嫌われる。人間という生き物は、嫌いな相手からの言葉はシャットアウトしてしまうことが多い。中学受験や高校受験を控えた子供に、支配的に進捗管理を行うと子供は「やらされている感」が強くなり、自我が強い子ほど反発が強くなる。

 そもそもなぜ受験をするのか、なぜ勉強をするのか。子ども本人もそうだが、親も目的を忘れてはならない。

 

 なぜ受験をするのか。

 なぜ勉強をするのか。

 なぜ朝早起きをしなければならないのか。

 なぜ好きなことだけをして過ごしてはいけないのか。

 

 その先の目的やビジョンを忘れて、ただ目の前の課題をこなすことだけに発破をかけて、本当に幸せになれるのだろうか。

 

 人生は長い。そして基本的に思い通りにはいかないのが人生だ。

 

 その瞬間に達成できなかったとしても、遠回りして目的につくこともあるし、反れたと思った道の先に別の幸せの形を見つけることだってある。思い通りにならない人生で、自分はどう生きるか、何に幸せを見出すか。それが幸せへの近道なのかもしれない。