理不尽と向き合う

 人生に理不尽は尽きないものだ。

 

 もちろん、理不尽な目には合わない方が良い。誰だって、望んで理不尽な出来事に突き進むことはしないだろう。

 しかし、自分の責任が及ばないトラブルへの叱責。どうあがいても変えられない過去の出来事への言及。覆せない年齢差を盾にした物言い。突然の事故や病気、天候のトラブルや震災。こういった理不尽はどんなに備えていても回避不能なことがある。

 

 実際に理不尽と遭遇した時、人はどういう反応をするだろう。

 理不尽に呑まれただ悲しみに打ちひしがれるか。理不尽はなくすべきだと戦い通すか。仕方ないと理不尽を受け流すか。

 

 私が人生で初めて理不尽にさらされたのは、兄弟げんかだった。年の離れた姉に一方的にやられていた。当時小学校高学年の姉と、小学校低学年の私。体格差もそうだが、思考力や語彙力の差も大きかった。罵声を浴びせられて、ただ嵐が過ぎ去るのを縮こまって耐えることしかできなかった。その日は、何故かは覚えていないが勇気を振り絞って、「いじめるのをやめてほしい。どうして私をいじめるのか」と姉に聞いた。かえってきた答えは「だって妹だから」だった。その時幼い私は悟った。人生では努力だとかではどうにもできない理不尽なことがあるのだと。結局私はこの、「妹だから」という覆すことのない事実に基づく理不尽ないじめを、耐えることでしのいだ。そして自身の成長と共に、反発するだけの体力と知力を身につけ、時には姉が不機嫌にならないように回避する方法も身につけた。念のため書いておくが、互いに成人になった今現在、私と姉の関係は良好である。

 

 理不尽は、可能なら誰もが避けたい。しかし、避けられない理不尽というものは人生に必ず存在する。自分の人生が自分の思い通りにならないことはもはや当然の事実である。それを自分の中で受け止めて、そのうえでどう生きるかが、より幸福な人生を生きる事という事なのかもしれない。

 

 ただ、子育てをしていて思うのは、この理不尽が親から子の垂直の関係で発生してはいけないということだ。

 

 親は子供にとっての安全基地であり、最後の拠り所だ。その親から理不尽を浴びせられる子どもは居てはならない。親は自身から子供へ理不尽を押し付けてはいけない。親自身から押し付けなくても、子どもは社会に関わっていく上で理不尽を味わう。親が出来ることは、子どもにふりかかる理不尽を排除しすぎず、理不尽への対応法を示したり、理不尽に推しつぶれそうになった時の避難場所を用意しておくことだ。そして理不尽に対処できなかったからといってその子を決して責めてはいけない。理不尽は対処できないことがほとんどなのだから。