正義が常に正しいとは限らない。

 学生時代、問題の答えは常に一つだった。

 しかし現実の社会において、答えが一つである問題のほうが少ない。正解がいくつもあることが大多数だ。問題同様に、正義だって答えは一つではない。

 正義という大義名分は非常に危険だ。

 正義の名のもとに、悪に鉄槌を下す。勧善懲悪はいつの時代も見ていて気持ちが良いものだし、正義だと信じた行動は時に人を熱狂的な風をまとい、大きなうねりを作り出す。しかし、その正義と信じた行動が、他方から見たらまた一つの悪に見られるし、時代が流れて正義が変わることだってある。

 

 正義が常に正しいとは限らない。

 

 正義のために、人を言い負かす。

 正義のために、相手を殴る。

 正義のために、他者を貶める。

 正義のために、罪を犯す。

 

 どれも、正義を信じる人にとっては正しい行動かもしれないが、別の正義を信じる人にとっては悪の行動になる。

 

 自分の正義は相手の正義ではないことがある。

 

 これを知ることが多様性社会の始まりであり、それを受け入れるか反対するかを表明することが表現の自由だ。自分の正義のために他人の正義を踏みにじっていい権利など、だれも持っていないのだ。だからこそ、住み分けは必要な施策で、知恵だと私は思う。

 合わない人間同士が出会わないことが、争いを生まない一次予防的方法であり、不必要な衝突を避けられる。ただし、お互いの居場所は確保される。

 自分と違う正義の人に「居なくなれ」と思ってはいけない。誰にだって生きる権利はあるのだから。

 自分と他者は考えが違う。一人一人、誰もが心地よく過ごすために「知る。受け入れる。時に離れる。」が多様性社会において必要な行動だ。

 そして忘れてはならないのが、自分の正義が常に正しいとは限らない、ということを覚えておくことだ。たとえどんなに共通点が多い友人や家族であっても全ての考え方が一致しないように、生まれ育った環境が違う人間が自分と異なる正義を持っていることは当然のことなのだ。

 大事なことは、知ること。そして知ったことに対して受け入れること。受け入れることが難しい場合は離れること。決して相手の居場所を全て奪うことはしないこと。

 様々な正義が共生できる社会が、正しい多様性社会ではないだろうか。方法はいくらでもある。相手に強要する方法は衝突を生む。それが強すぎると侵害になる。

 

 全ての人が心地よく過ごすために。これを忘れてはいけない。